
牛乳問題から見える“教育と食”のすれ違い
学校で当たり前のように出される牛乳。
苦手でも、嫌いでも、「みんなが飲んでるから」という理由で、飲むのが“当然”とされる給食の風景。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。
なぜ“同じであること”が、ここまで強調されるのでしょうか?
そしてそれは、いつの間にか私たちの思考や行動を縛っていないでしょうか?
この問いは、単なる“牛乳の話”にとどまりません。
教育、制度、そして私たち自身の心のあり方にまでつながる、重要なテーマかもしれないのです。
■ 「みんな一緒が安心」という思い込み
私たちは子どもの頃から、「みんなと同じように行動することが正しい」と教えられてきました。
そこには「協調性」や「秩序」を大事にする文化の良さもある反面、“違い”を許容しにくい空気を生んでしまう側面もあります。
たとえば、給食で牛乳が苦手な子がいたとしても、
「みんな飲んでるのに、なんで君だけ残すの?」という同調圧力が生まれやすい。
これは単なる食の問題ではなく、「異なる選択をする自由」を持ちにくい心理構造を子どもたちに刷り込んでしまうリスクがあるのです。
■ 「教育=管理」という古いモデル
学校は、長年「管理しやすいこと」を優先して制度設計されてきました。
たとえば、栄養士が1つの献立を立て、それをすべての子どもに提供する方式は、効率面では理にかなっているように見えます。
しかしそこには、個々の体質や価値観、選択を尊重する視点が抜け落ちがちです。
つまり「効率はよくても、健康にとって本当に良いとは限らない」構造になっているのです。
■ 子どもが感じる“違和感”を見逃していないか?
心理学の視点から見ると、子どもはとても敏感に「自分の身体に合わないこと」や「居心地の悪さ」を感じ取ります。
そして、それを言葉にできないまま、大人に合わせて「我慢すること」を学んでいきます。
これは、
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食べたくないのに食べる
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苦手でも「好き」と言わされる
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「飲まないと怒られるから」飲む
といった形で、自分の感覚を押し殺す習慣として定着しかねません。
その積み重ねが、やがて**“自分の感覚が信じられない”大人**を生み出してしまう可能性があるのです。
■ “選べる教育”の第一歩として
欧米では、アレルギーや宗教、食の価値観の違いに配慮した「選択可能な給食制度」が導入されている国もあります。
「どれを選ぶか」は、一人ひとりの価値観や体質に合わせて自分で選ぶことが前提です。
これこそが、ほんとうの意味での“教育”ではないでしょうか?
つまり、「自分の体に耳を傾ける力」や「違いを尊重する力」を育むことです。
■ 牛乳は、ひとつの“象徴”にすぎない
牛乳そのものを否定したいわけではありません。
けれど、「全員にとって牛乳は体に良いはずだ」という思い込みに基づいた制度は、見直すべき時期に来ていると感じます。
これは牛乳だけでなく、
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教室の温度設定
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テストの評価方法
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集団行動のあり方
あらゆる「常識」にも共通する問いかけなのです。
■ 最後に 〜“問い”を持てる大人であるために〜
「みんなと同じでなければならない」という価値観は、時に安心をくれます。
でも、その安心が「自分の感覚を抑え込むこと」で得られているなら、それは本当に健康的でしょうか?
自分の体に合ったものを、自分で選び、必要なら「NO」と言える。
そうした力は、食育からでも育てていけるのではないかと思います。
「それって、本当に私にとって必要なもの?」
小さな“問い”を、日々の食卓や学校の場面でも持てる社会であってほしい。
そう願いながら、締めくくりたいと思います。